明治29・30年は、水害にみまわれた。そのため、加古川の本格的改修の要求が高まった。明治31年、加古郡・印南郡の17ヵ村は、「加古川河身改修期成同盟」を結成した。しかし、1904年(明治37)の日露戦争が、それに水をさした。経費節減のため河川改修実現への動きは頓挫してしまった。
1907年(明治40)7月から9月にかけて、台風が次々来襲し、大きな被害があった。これをきっかけに、ふたたび河川改修要求の運動に火がついた。その後、河川改修の運動はさらに高まり、1907年貴族院・衆議院で「加古川は、天下の大川では及ばないが、その被害ははなはだしく、人民の苦悩は計り知れない。
だから、関係人民の苦衷を察し、加古川に河川法を施行し、相当の改修をして、安心して暮らせるようにして欲しい・・・」とする河川改修の請願が採択されたのである。
この請願は、3月13日の衆議院請願委員会に、そして、22日に衆議院本会議にかけられ異議なく可決された。加古川の水害の深刻なことが、中央の帝国議会で認められた。河川改修は、確実に動き始めた。
地図は、1903年(明治36年)測量の五万分の一の地形図である。流路は、現在とだいぶ異なっている。
*『加古川市史(第三巻)』参照

