
35.平岡町二俣探訪:二俣の思い出
南海仁さんの子供のころの思い出です。
戦争中の思い出
我が家は、茅葺きで、電灯ははだか電球1ケ。
空襲警報のサイレンであわてて電球を布で囲い、明かりが漏れないようにした事を思いだします。
空襲警報のサイレンで防空頭巾をかぶり防空壕へ飛び込んだり、母親におんぶしてもらい近くの水路に入り身を屈めました。
空襲警報と言えば艦載機が西明石にある川崎航空機の爆撃目標だった、ことなどを覚えています。
お寺でお経を習いました
小学生に入ったころは、お寺(円明寺)の日曜学校に出向き、住職よりお経(般若心経)を習い、説ぽうをよく聞きました。
そのころは、父親が満州から引き揚げて来たころだと思うのですが、 家も貧しく良く、食材としてサツマイモの葉、セリをよく食べました。
小学生5~6年生ころになると車も木炭車からガソリン車に変わり、良くガソリンの匂いを嗅ぎました。
楽しかった正月・盆
子供のころの遊びは、バイ、ビ-玉、バッチンとでよく遊び、正月になると大人も子供と一緒に朝早くから夜遅くまで楽しんでいました。
また、盆になると墓で作った西瓜の提灯を持ち寄りお互いに西瓜提灯の明かり消し遊びなぞで楽しみました。
中学校は水足の兵舎(高射砲隊の兵舎)跡
中学生頃になると戦争からの復興で景気もよくなってきました。
中学校は、野口町水足にある兵舎跡の木造平屋校舎であり、近くに高射砲の設置建物がありまあした。
校舎は、のちに今のハリマ化成です。校門が現在も残っております。
・・今から53年前のことです。
* この「平岡町二俣探訪」は、歴史を中心に書いるといいながら、時系列になっていません。内容の取り上げ方にも統一性がありません。とにかく、分かったことから書いています。ですから、どんどん投稿ください、「最後に整理ができたらよいな」と考えています。
