
「新井」の思い出を大西晃さんが書いてくださいました。
魚をいっぱい捕りました
新井は、5月から9月末までしか流れていませんでしたが、所どころに洗い場があって、野菜を洗ったり、洗濯したりしていました。
川上で、子供が小便していても、「3m流れれば、水はきれいになっている」と言われていました。
新井の水は、本当にきれいで、魚もいっぱい泳いでいました。
手作りの竿にテグスに針をつけ、「雑魚つり」が楽しみでした。
釣った魚は、捨てたりはしません、炊いて食べるか、長期保存用に昼干すれば、良いカルシュウム源でした。
うなぎが石垣の中にいましたので、うなぎ捕りも楽しみの一つで、食用蛙も食べていました。おいしかった。
しかし、足のついたままの料理には、手が出ませんでした。
大きなドジョウもいて、その大きなドジョウを味噌汁に入れれば最高の汁でした。
また、新井の一部に砂地のところがあって、そこにシジミ貝が多く住み着き、肝臓に良いんだと言って採っていました。
と言うことは、食べれるものは、何でも食べていました。食糧難の時代でしたので、いかしかたないですね。
ホタルの里
5月下旬頃から、夕方には、蛍が舞い、蛍取りも楽しみのひとつでした。
手で掴もうとすると、土手のすすきで傷つき、血が出ていましたが、血止めの草があって、手に当ててがまんしていました。
新井土手には、桑の木が植えてあって、葉は蚕の餌にしていましたが、桑の実は非常においしく、手や口を真っ赤にしながら食べていました。
野いちごもたくさんあって、腹が減ったら、新井土手へ行っていました。
冬は、水が流れていませんが、防火用水用に堰こまれていました。
丁度、そこに氷がはっていて、ミシ、ミシと氷が裂けていても氷の上で遊んでいました。
今は、全く氷がはりません。
今はその頃に比べれば暖冬ですね。70年ほど前のことです。
第二次大戦中(昭和16年から20年8月まで)は、空襲警報が鳴れば、新井の橋の下にかくれたり、機銃掃射のときは地上30m位まで降りてきて、飛行機に乗っている兵士が眼鏡をかけ、ガムをムッチャムチャしているのがはっきり見えました。
戦後も食糧難は続きました。本当に「ひもじかった」時代でした。
