加古川を歩く(33):舟運(1)・流通の変化

加古川の舟運(しゅううん)を取り上げたい。

このシリーズは『加古川舟運の研究(吉田省三著)』(滝野町)を参考にさせていただきます。5月18日のブログ「加古川川筋一揆・一つの経済圏」の一部を再録しておきたい。(挿絵も同じである)・・・・加古川流域の年貢米・綿等は、高瀬舟(挿絵)で高砂に集められ、ここから大阪・江戸等へ送られた。そして、帰りの舟で干鰯(ほしか)・その他の生活用品が流域の村々に運ばれた。・・・・

江戸時代、加古川流域は藩の枠を超えて加古川川筋という一つの経済圏が成立していた。

・・・・江戸時代、加古川舟運は大いに栄えたが、原因として次の三点があげられる。

三つの理由(舟運の開発)

①信長の後、秀吉は天正十一年(1583)に大坂に城を築き、大坂は政治・経済の中心となった。そのため、西国の諸物資は、主に船舶により大坂に集まるようになった。そのため俄然、加古川の舟運が注目されるようになった。

②そして、秀吉・池田氏という播磨一国を支配する大名の出現が考えられる。戦国時代のように群小の豪族の経済・技術・政治力では、加古川を通しての舟運開発は不可能であった。

③さらに、姫路藩による高砂港の整備があげられる。

加古川舟運が栄えた主な原因として、まず以上の三点が考えられる。

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